★プロローグ

1968年1月12日岐阜県揖斐郡池田町にて生まれる。

詩吟揖水流(いすいりゅう)家元の長女に生まれた彼女は、4才から父の意向で詩吟を習い始める。父の教えは厳しく、朝は毎日4時半にたたき起こされ、近所の神社で発声練習。学校から帰れば友達と遊ぶ間もなく、さらに4~5時間の練習が待っていた。その特訓の甲斐あって12才で師範代となるが、やがて詩吟を続けることに疑問を持つようになる。

「とにかく怖い父親で、決められたことはやらなきゃいけないというふうに教え 込まれてきたって感じだったんですけど、自由な時間もないし、自分の意志を持つようになってからは、詩吟をすることがすごく重荷になってきたんです。父親のそばにいたら、決められた人と結婚させられて、私の人生勝手に父親が作っていくというのはもう目に見えてたので、早くこのうちを出たいと思うようなって、独立心はものすごく旺盛でした」

★思春期

そういう気持ちが芽生え始めていた頃に、テレビでたまたま「津軽海峡冬景色」を歌う石川さゆりさんを目にし、彼女の中に「将来は歌手に」という夢が膨らみ始め、それがまた”家を出たい”という思いに拍車をかけることになった。
が、父親はおいそれと許してくれるわけがない。どうしても許しが出なかった時は家出をしてでもと思いつめた彼女は、お小遣いをため、アルバイトをし、着々と”その日”のための準備を始める。
が、もちろん許してもらえるに越したことはなく、彼女は一方で詩吟も続け、中学高校時代は父の機嫌のいい頃合いを見計らっては、説得し続けるという日々を過ごす。やがて家族も彼女の味方になり、家族ぐるみの説得に、さすがの父親も折れる。

「結局、条件付きで許してもらったんです。その条件飲むんだったら、行ってもいいぞと。それで2年間やってみて、ダメだったら帰って来いと」

その条件とは、自活すること、新聞配達をすること、毎日実家に電話をすることの3つ。かなりキツイ条件だと思うが、それでも彼女は喜々として単身上京する。

★上京

上京した彼女は新聞配達店で定められた4畳半一間のアパートに住み込み、東京での生活を始める。

「働いて自活するというのは、全然苦じゃなかったんですよ。新聞配達は多少辛かったけど、一番大変だったのは電話でした。一週間も電話しないと、向こうから大家さんの所にかかってきて、約束も守れないんだったらもう帰ってこいといわれて」

しかしもちろん、そんなことで帰る彼女ではない。新聞配達だけでは自活できないのでさらにアルバイトを重ね、もちろん上京の目的である歌手を目指すべく、ヴォイス・トレーニングに通い、踊りや芝居のスクールにも通い始める。そんな彼女の1日は、新聞配達に始まり、終わると夕方までバイト。それからレッスンに通い、終わるとまた終電までバイト。かなりハードな日々だが、それでも実家に帰ろうとは思わなかった。

「帰ったら父親のいいなりになって、私じゃなくなると思ってましたから。やっぱり自分のやりたいことをやって、女でも自立できるんだっていうところを見せたかったですし、 どうせやるんだったら、1枚ぐらいレコードを出さなきゃって思ってました」

★デビュー

そんながんばり屋の彼女に、デビューは思いのほか早く訪れる。彼女が通って いたヴォイス・トレーナーの所へ、レコード会社やマネージメント・オフィスの人々がやってきた時に、紹介してもらえたのだ。話はそこからトントン拍子で進み、上京後 2年足らずで彼女はその夢を手に入れ、1988年「ホレました」でデビューする。
が、ことはそうはうまく運ばない。さらにまたここで、忍耐の日々が始まる。

「夢と現実というのは、こんなにも違うんだということを、やっぱり感じましたね。同期でデビューした方がレコード大賞の新人賞にノミネートされたりするのを、脇で指をくわえて見てました。 でもその悔しさをバネにして、3年後は見てなさいよと気持ちをかきたてたりして……」

  デビューはしたものの、テレビに出られるでもない当時の彼女は、全国各地の カラオケ・スナック、喫茶を歌って回り、その場でCDやカセット・テープを売って歩くという日々を過ごす。一か所で40~50分歌うと、また次の店へ。それが1日に7~ 8軒も続くのだ。

  「こんな山奥誰も来てないだろうなと思うような暗闇の中をしばらく行くと、民家があってお店があって、こんなとこお客さん来ないだろうなと思ってたら、町ぐるみでみなさん来てくださって。普通の民家で歌ったりということもありました」

  他人が聞くと音を上げたくなるような日々だが、それでも彼女は歌える場があってよかったと、からっとした表情でいう。

「本当に歌うことが好きなんだと、自分で思いました。こうやって一生懸命やっていれば、いつかチャンスがやってくるんじゃないかなって、それを信じてやってました」

★ターニング・ポイント

そんな彼女の信念が実を結ぶ時が、デビュー6年目に訪れる。1994年に発売され た「三日月情話」が日本作詞大賞の優秀作品賞に選ばれ、高い評価を得たことがきっかけで、その次の作品「夕霧海峡」が、20万枚を越えるヒット作になり、彼女の歌手生活の中で、ターニング・ポイントとなる楽曲になったのだ。

「『夕霧海峡』からは、環境がガラッと変わりましたね。NHKの民謡番組の司会の話がきたり、『お江戸でござる』のレギュラーが決まったり、メジャーな番組にもコンスタントに出られるようになったり、歌う場所も少しずつ大きい会館借りてもらえるようになりました」

  が、神様は意地悪で、彼女に喜びのみを運ばず、悲しみをも同時に運んできた 。「夕霧海峡」のキャンペーンで笑顔をふりまく一方で、彼女は両親の死に直面していたのだ。それは突然訪れた。「夕霧海峡」発売の一週間前に母が逝き、そのまた一週間後に後を追うように父も彼岸へ旅立った。今までにも増してハードなキャンペーンと、立て続けの両親の葬儀。彼女はその目まぐるしい日々を、気力で乗り切る。

「今までは、本当にダメだったら親の所に帰ろうという甘えが、どこかにあったと思うんですよ。でももう甘えられる所もないし、歌でがんばっていくしかないと自分にいい聞かせて、何がなんでも売りたいと思ったし、仕事に没頭することで、悲 しみを忘れたかったんですよね」

  もちろん「夕霧海峡」は、ただ黙ってて売れたものではなく、彼女とそのスタッフのがんばりの成果だ。彼女にそんな力を与えたのは、いってみれば両親だったのかもしれない。その後の彼女は次々にクリーン・ヒットを飛ばし、「みれん酒」では「夕霧海 峡」をしのぐ40万枚というセールスを記録した。2000年には念願のNHK「紅白歌合戦 」への出場も果たし、仕事の幅も広げ、2002年のスタートと共に、新曲も発売され る。 苦労を売り物にして這い上がっていく歌手もいるが、彼女はそれをおくびにも出 さず、 明るく素直に日々歌い続けている。

「できれば苦労なんかしない方がいいと思います でも、私はこれでよかったと思う。またいつか落ちる時があったとしても、また昔やってたことをやればいいんだからと思えますし、強くなりましたね」

  小一時間話を聞いて、まるで昭和10年、20年代生まれの人の苦労話を聞くようだった。だが、目の前にいるのは細身で清楚で、そんな苦労をしてきたことなど微塵も感 じられない、30代前半のまだお嬢さんといってもいいような小柄な女性。
笑顔で語る彼女の微笑みは、本当に軽やかだった。

インタビュー 角野恵津子

★30周年記念スペシャル・インタビュー


インタビューはこちらからご覧ください。

written by 村田弘司(歌の手帖 編集長)

 

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