そんな彼女の信念が実を結ぶ時が、デビュー6年目に訪れる。1994年に発売され た「三日月情話」が日本作詞大賞の優秀作品賞に選ばれ、高い評価を得たことがきっかけで、その次の作品「夕霧海峡」が、20万枚を越えるヒット作になり、彼女の歌手生活の中で、ターニング・ポイントとなる楽曲になったのだ。
「『夕霧海峡』からは、環境がガラッと変わりましたね。NHKの民謡番組の司会の話がきたり、『お江戸でござる』のレギュラーが決まったり、メジャーな番組にもコンスタントに出られるようになったり、歌う場所も少しずつ大きい会館借りてもらえるようになりました」
が、神様は意地悪で、彼女に喜びのみを運ばず、悲しみをも同時に運んできた 。「夕霧海峡」のキャンペーンで笑顔をふりまく一方で、彼女は両親の死に直面していたのだ。それは突然訪れた。「夕霧海峡」発売の一週間前に母が逝き、そのまた一週間後に後を追うように父も彼岸へ旅立った。今までにも増してハードなキャンペーンと、立て続けの両親の葬儀。彼女はその目まぐるしい日々を、気力で乗り切る。
「今までは、本当にダメだったら親の所に帰ろうという甘えが、どこかにあったと思うんですよ。でももう甘えられる所もないし、歌でがんばっていくしかないと自分にいい聞かせて、何がなんでも売りたいと思ったし、仕事に没頭することで、悲 しみを忘れたかったんですよね」
もちろん「夕霧海峡」は、ただ黙ってて売れたものではなく、彼女とそのスタッフのがんばりの成果だ。彼女にそんな力を与えたのは、いってみれば両親だったのかもしれない。その後の彼女は次々にクリーン・ヒットを飛ばし、「みれん酒」では「夕霧海 峡」をしのぐ40万枚というセールスを記録した。2000年には念願のNHK「紅白歌合戦 」への出場も果たし、仕事の幅も広げ、2002年のスタートと共に、新曲も発売され る。 苦労を売り物にして這い上がっていく歌手もいるが、彼女はそれをおくびにも出 さず、 明るく素直に日々歌い続けている。
「できれば苦労なんかしない方がいいと思います でも、私はこれでよかったと思う。またいつか落ちる時があったとしても、また昔やってたことをやればいいんだからと思えますし、強くなりましたね」
小一時間話を聞いて、まるで昭和10年、20年代生まれの人の苦労話を聞くようだった。だが、目の前にいるのは細身で清楚で、そんな苦労をしてきたことなど微塵も感 じられない、30代前半のまだお嬢さんといってもいいような小柄な女性。
笑顔で語る彼女の微笑みは、本当に軽やかだった。
インタビュー 角野恵津子